クルミを割ったことのない日々

思いついたことを好きなだけ

最悪の一人暮らし

初めての一人暮らしは憧れの下北沢ではなく、首都圏の縁もゆかりもない町だった。

 

その町を知る知人に言わせれば、あまり治安のよくない場所だったらしい。

物価は特段高くも安くもなかったが、私が一人暮らし中に買って余った米を実家に持ち帰ると、母は「こんなひどい米食べてたの?」と鳥の餌にしてしまった。そんな米を売っていた町。

 

近所のバイトをしていたコンビニに来る客は異常な金髪率で、カップルには犬の絵のジャージにサンダルのコーディネートを色違いで着るのが流行っていた。2人に1人はタバコを買っていった。「ソフト」と言ったらセブンスターを出せとおじさんに怒られた。

 

私の暮らしていたアパートは郵便受けの下にチラシが散乱していて、外階段にはセミが死ぬほど死んでいた。

家に訪ねてきた「Y新聞です」と名乗る極道感のある男に懇願され仕方なく1か月契約すると、代わりにオーブントースターをくれた。契約書をよく見ると「A新聞」と書いてあった。

 

ある平日の昼間にテレビを見ながらくつろいでいると玄関からガタガタと音が聞こえたがポスティングと思い気にしなかった。

それにしては音が続いていることにハッとして玄関のドアを見た。

ドアの隙間から差し込まれた先の曲がった棒が、サムターン式の鍵のツマミを探るようにバタバタと踊っていた。

心臓が握られたように、一瞬息が止まってからすぐに大きな音を立て始めた。

どうしようかと何秒か呆然と立ち尽くしてからそっとドアまで歩いていき、動き回る棒を片手で掴んだ。何の考えもなかった。

棒の動きはピタッと止まり、ドアの向こうからも別の緊張感が伝わってきた。細く冷たい金属の棒を誰かと握り合っている状態が数秒間続いた。

「捕まえよう」

そう頭に浮かんだ瞬間に鍵を開け勢いよくドアを開けた。

ガン!

と、激しい音と共に中途半端にドアが開いた。気が動転していてチェーンロックをしたままだった。開き切らなかったドアの隙間には、たしかに人間が立っていた。

急に怖くなりドアを閉めて金縛りのように動けなくなった。

それでも走り去る足音を聞いて、確認しなければと思った。

今度は静かにドアを開けて階段の方を見やると、グレーのスーツに鞄を持ち茶髪を整えたサラリーマン風の若い男が、振り返ることなくやけに冷静に階段を降りていくのが見えた。

足がすくんでそれ以上姿を追う気持ちになれなかった。今思えばそれでよかった。

 

間もなくして私はその町を離れた。