クルミを割ったことのない日々

思いついたことを好きなだけ

マラソンが嫌いじゃなくなるまで

先日、小学生時代の体育のトラウマ話を書いた。

oki-nikki.hatenablog.com

 

それで思い出した、その後のこと。

 

マラソンの時間に同級生の1人の子からよく「一緒に走ろう」と声をかけられていた。でもその子の誘いの意味がずっとわからないでいた。

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なぜなら、いつも途中で足の遅い私を置いて先に行ってしまうから。一緒に走るって言っといて何だろうと思いながらも、また誘われれば「いいよ」と受け入れていた。

単純に仲良しで一緒に走りたかったけど私が速さに付いて行けなかったケースはあって、その時はお互いごめんねってことで再び一緒に走ることはなかった。

でもその子は特別な仲良しでもない上、何度も誘ってきてはその度に裏切るように先に行ってしまうので不思議に思っていた。

すると別の友達からその子の良からぬ噂を聞かされた。自分が抜かされないように一緒に走ろうと数人に声をかけて、自分の順位が上がるように周りを調整しているというのだ。こんなに姑息で悲しい戦略があったろうか。

その当時のマラソンは、学年全体で走ってゴールの瞬間に先生に順位を告げられていた。そのため前回より1つでも順位を上げたいと躍起になっている子も中にはいた。

今にして思えば、そんな順位付け教育に追い詰めらられたあまりの必死の行動だったのかもしれない。

しかし私は最後までちゃんと走れれば十分、順位どころかビリになるかならないかの問題を抱えるレベル。だから、そんな手段を使う対象でもないのにどうしてわざわざ……と幼い私はその子を嫌いになってしまった。

友達からのアドバイスもあり、その後に誘われた時は勇気を出し断った。なんで?と聞かれても、ただ「1人で走りたいから」とだけ言った。そしてもう傷つきたくない私は、誰とも一緒に走らないと心に決めた。

 

ところが1人で走るようになってから、それまでより走ることが苦ではなくなっていった。相手に合わせず自分のペースで走るマラソンは自分の精一杯だけを考えられるので、前より気持ちが楽になって思いっきり走れると気づいた。
いつしか「一緒に走ろう」と言ってきていたあの子を抜かしてしまう日も増えていた。

 

次回「足の速さがクラスでビリの私がリレーの選手になるまで」